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不正というのが不正

 投稿者:素浪人  投稿日:2014年 4月17日(木)11時37分32秒
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  全否定の証明は不可能である。全ての状況を想定し検証する事は不可能である。
「神様は存在しない」とは誰しも言い切れるものではない。
しかしそれ故に(=否定できないからという事をもってして)
「神様は存在する」と言う事の証明にはならない(=正しいとはいえない)。

不正とは『正しからざる』という意味である。
「正しい事が見つからない」から「正しい事はない」という証しにはならない。
不正であると判断するには「あらゆる面」から『正しくない』と証明する必要がある。


但し、宗教の世界は別であり、そのような『論理的』な思考は通用しない。
宗教観の強い人々にとっては『論理的』に「正しい、正しくない」かは問題ではなく
宗教者として「信じている」事が「正しい」事なのである。
宗教的な人々の世界には「論理的な矛盾がある」などという判断は無縁である。
宗教に於いては個々の信者・団体で「信じられている」事が「正しい」事の拠り所であり、
『論理的』に正しい判断を行なっているのではないし、屡『論理的』な追求によっては
教義の矛盾が顕在されてしまうので、むしろ『論理的』な思考は必要されず排除される。
物事の本来の「正しい、正しくない」はどうでもよく「信じる」事が重視され強要される。
宗教家にとって、日常の行動規範は「信ずる事」を第一義として判断し
全ての事象をその宗教に都合よく解釈し「心の安寧」を得て生存しているのである。
一見、人聞きのよい「敬虔なる宗教人」とは、「信ずる」事への思い込みが強いだけで
( その実は自分達が生存し易い事柄=自分達に都合のよいように選んでいるだけにすぎない)
「信じている事」を「正しい事」として、あくまで「個々の宗教にとって正しい」教えに
従い進む善人を演じる=偽善者にすぎず、自己満足の度合いが強い人々にすぎない。

宗教的な世界においては「正しい」事とはあくまで「信じられている」事であり、
敢えて言うなら「正しい」という言葉の意味が異なっているのであり
宗教家と話をする事・議論・討議をする事・言葉を交わす行為には『注意』を要する。
宗教的な世界の人々と『論理的』に話し合う事は不可能である。繰り返しになるが、
宗教的立場の者にとり『論理的』な思考は屡「信じている事」の矛盾・不備を曝け出し
とても「都合が悪く」、そのような論理的判断=立位置を本能的に避けているのである。
そのような宗教家は、自己の生存を脅かす立場から脱却する事により生きながらえている、
という、いたって生物として素直な人生を送っている人々なのである
(本人達は平和の心に満足しているが、その狭義なるが故の教義により不幸がもたらされ
 争議する現実を直視せず、信仰の世界に逃避している『ご都合主義者』にすぎない)。
 
 
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